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遅すぎる一歩

こんなコメントをいただきました。

「苦しみを見届ける者には、ただの恐怖と悲しみしか無いのです。」

その通りだと思いました。

あの時の私は、死に行く人を前に恐怖を感じました。
それは、人間が死ぬ瞬間に立ち会えば相手が誰であっても感じる恐怖だったと思います。
肉親でなくても。

そして、悲しみ。
愛する人が次の瞬間には死んでしまう、抗えない現実。
悲しい。
とてつもなく悲しい。

父の時も看取りました。
あの時は、季節は初夏、病室の外には太陽がありました。

そして、病室には母が、父の姉もいました。

父の姉が、父の名を呼び続け、体を一生懸命さすっていました。

つられるように私も、
「父さん、父さん、ありがとね。」と足をさすりました。

もしもあの時、私が1人で父を見送ったなら、同じ行動をしたかは分かりません。

人が死ぬ瞬間に初めて立ち会ったけれど、現実味はなく、
よく分からないまま時が過ぎた、というのが真実のような気がします。

夜明け前の寒い病室で、たった1人、母の死を受け止めねばならなかったこと。

その恐怖と悲しみはあまりに大きく、私を打ちのめしました。

怖かった。
悲しかった。

母さん、と叫ぶことはなく、
私はただ静かに泣きながら母の手を握り、悲しみの中で途方にくれました。

誰か側にいる、というのは大きなことなんだ、と今更思います。
誰かいてもいなくても母は死んだし、
私は悲しかったし、恐怖もあったでしょう。

でも、立ち直りが違うような気がするのです。
親が死ぬのなんて当たり前のことなのに、40を過ぎた大人が、1年を過ぎてもあの時の光景を思い出しては泣いてしまうのは、1人だったせいなのかもしれません。

看取ったことなど、些細な小さなこと、と思ってきたけれど、
私にとっては抱えきれないほど重いことだったんだ、とコメントで気付かされました。

あの時の恐怖と悲しみを誰かに話したとしても、
理解されない、意味がない、小さなこと、と思ってきました。
胸にある重しは、何も出来なかった私への罰のように思っていました。

でも、とても辛く、重い、悲しい経験をしたんだ、
と認識することが立ち直りへの一歩なのですね。

自分を責めても母は帰って来ないから。
母の望んだ私の幸せが実現できるよう、頑張ります。

おやすみなさい。

(*・ω・)b
つかさん、まさこさん

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